「理解」の取り扱いに気をつけようと思った話

「理解」の取り扱いに気をつけようと思った話

2021/10/19

僕たちはよく、他者や異文化を「理解する」という言い方をします。しかし、この「理解」というやつの取り扱いには気をつけたほうがいいのではないかということを最近よく思います。今日はそのことについて書きます。

「理解する」ということには、過剰な期待が含まれる

相手を「理解する」ということは、必ずしも両者の関係が良くなっていくことを意味しません。
白饅頭さんが最近書かれていたことですが、相手を理解とすることと受容することは、必ずしもワンセットではありません。相手を理解したからこそ訣別や拒否を選択することもあります。相手を理解すればするほど、自分には受け入れ難い事実が目についてしまうということもあるのです。考えてみれば、ごく当たり前の話です。
しかし「理解」、とりわけ「異文化理解」という言葉が使われる時は、なぜか異文化への受容や寛容みたいなことがワンセットで語られがちです。「理解」の中にゴールとしての受容や同化、共生への期待が含まれている、とでもいうのでしょうか。
しかし物事はそう単純ではなく、異文化のことを知ったからといってそれがすぐに受容できるとは限りません。むしろそこは始まりであり、そこから時間をかけてすり合わせをしていく道程こそが重要なのです。「理解」と「受容」をひとまとめにして考えないよう、自戒しておきたいものです。

「理解しよう」という上から目線

また異文化の文脈で「理解」という言葉が使われる時には、ちょっと上から目線のヤダみが伴うのではないか、ということもあります。
これも自戒をこめて書くことですが、「異文化に理解を示そう」という時、そこには自分の文化の側が「ただしく」、自分の方の考えや常識に沿わない相手の文化の方が「まちがっている」のだという前提がどうしても含まれてしまうことがあるように思います。つまり、なぜか自分を強者の側に置いて、相手のダメなところや劣ったところを肯定しよう、受け入れようみたいな意識が見え隠れするというか。
本来は対等、フラットな関係であるはずの異文化に対してこのような前提を持つことは、あまりいいことではないように思います。もちろん誰だって自分の生きてきた価値観や文化の方に親しみがあるし、それが自分にとって心地よいものですが、だからといって相手の方を「ただしくない」ものや、ましてや劣ったものとして扱うことは傲慢以外の何者でもありません。
それは時に、「理解」の皮を被った「よきこと」の押し付けにさえつながりかねないものだと思います。
このあたりは僕がごちゃごちゃ言うよりも、「グリーン・インフェルノ」という映画を見ましょう。「ただしい」文化の押し付けなどをやろうとすると、どういうことになるか嫌というほど見せつけられます。

「理解」ではなく「知る」こと

しかし異文化について、何も交わらずに相互不干渉のまま時が過ぎていき、お互いへの悪い想像ばかりが膨らんでいって距離が離れていくばかりというのも、それはそれで不健全というか悲しいことなのではないかと思います。
だとすれば、望まない融和とワンセットになった「理解」ではなく、フラットに相手を「知る」という営みとして異文化を見ていくことが大事なのかな、と思います。相手にも自分にも過度な期待を寄せず、ただ観察する。相手への尊敬を忘れずに、「なぜそうなるのか」を知ろうとする。そしてそれを言葉にする。そういうことを続けていれば、いつしかそれをヒントに誰かがよりよい共生についてのアイデアを見つけてくれるかもしれない。
そういった気持ちで異文化と向き合っていこうかと思います。
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言葉狩りをする気はないし、このような考え方を人に押し付けようという気はないのですが、自分なりに過度な期待を含む「理解」と距離をとり、できるかぎり淡々と「知る」ということに努め、それを言語化するつもりでこのnoteを書き続けようと思います。
今日はそんな思考メモでした。また明日。

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