「理解を示す」だけじゃやっていけない。中国で学んだこと

2021/10/17

白饅頭さんのnoteがぶっ刺さりました。
堂々と相手に向き合う自信がないために、相手に理解を示したつもりで「ご機嫌取り」をするような人間は、いつか軽んじられるようになる——そんなことを、厳しくも鼓舞するように述べた文章でした。
心当たりがありすぎてぶっ刺さりました(2回目)。
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中国に来るまでと、来てからもしばらくの間、僕はこの「理解」(かっこつき)を示すポーズばかりをとっていました。
文化や習慣が違うから、自分にも至らないところはあるから——と自分を納得させ、相手とぶつからず、何があってもヘラヘラと受け流し、できる限り相手のことを「受け入れる」。そして自分のできることをやる、というスタンスで物事をこなしていました。そうしていれば、いつかは相手も「理解」してくれる時が来るだろうと。
しかし、その根底にあるのは相手とぶつかることの怯えでした。もともと気が弱く、言い争いや相手からの「詰め」のようなものが苦手な僕は、とにかくそれが起こらないように穏便にコトを済ますことだけを考えて人と向き合っていました。
この戦略は、中国に来てからはまったく機能しなくなりました。
相手に恩を売っておけば、そのうちいつか返してくれるだろう。「理解」を示せば、きっと自分のことも「理解」してくれるようになるだろう。今は意固地になっている彼らも、いつかはきっと「わかって」くれるようになるだろう——そんな期待は、ことごとく裏切られました。
知らない間にあらゆることを押し付けられ、こちらが何か頼んでも知らんぷり。自分の願いが聞き入れられることはなく、リソースは奪われていくばかり。あれだけ「寛容」を示した相手から、苛烈な責めをくらうことも。そのたびに「理解」が足りないのだと自分を責め、またひとりであらゆることを背負いこむ。さらに軽んじられていく自分の気持ち。絵に描いたような悪循環。
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そして心と体を壊してしまうに至って、少しずつ自分は「理解」を示すふりをした臆病者だったのだということに気づき始めました。
自信がないばかりに、相手の顔色をうかがう。それは相手への尊重とは似て非なるものです。ただ単に怯えているだけで、相手に向き合おうとしていない。そんな自信のなさを、周囲は敏感に察知します。ああ、こいつは向き合う勇気のない、尊重するだけの自分をもっていないやつなんだ——と。
特に中国の人々は、意識的・無意識的にかかわらず、相手との力関係に敏感です。ここでいう「力関係」とは肩書きや権力という類のものではなく、1対1の人間としての度量のようなものの比較、と言い換えることができるものです。その意味で僕は、1人の人間として尊重されるだけの精神性を持っていませんでした。
しかしこれは中国に限ったことではなく、その発露の仕方が違うだけで日本でだって、どこの国だって同じでしょう。日本では見かけ上うまくいっていたように見えた僕の相手への「理解」を示す戦略も、周囲の人々と運に恵まれていたおかげで大きなストレスを抱えずにいられただけであって、本質的な部分ではやはり相手を軽んじ、そして相手に軽んじられていたのかもしれません。
中国に来たおかげで、「理解」「寛容」を示すふりをしながら内心で相手を怖がっていることのいびつさに気づくことができました。いまは自分の考えや思いを、時には衝突を生みながらも伝えたり、受け入れられないことを「寛容」のフリで受け流すのではなく、毅然と拒むことができるようになりつつあります。
ある意味で、僕は中国に来たことで「胸を張って相手に向き合う」ということができるようになってきた、ということなのかもしれません。怯えて「理解」の皮を被った服従を示すこと以外にも、対等に相手に向き合う方法がある、ということを、少しずつ信じられるようになってきています。
授業料は高くついたし、今でも臆病な自分が顔を出すこともあります。でも、このままやっていければ、もっと自分と周囲を愛せるようになるのではないかと思っています。
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国を超えて生きることで、自分の気づかなかった特性に気づくことがあります。
それは時に痛みをともなう変化をもたらしますが、決して悪いことばかりではありません。
これからも異文化に怯えることなく向き合いながら、自分が変わっていくことを楽しみ、それを言葉にしていこうと思います。

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